どの時代も交通の要所として発展

再開発で進化する尼崎市の阪神尼崎・JR尼崎・JR塚口エリア 再開発で進化する尼崎市の阪神尼崎・JR尼崎・JR塚口エリア

注目スポット

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尼崎市の「阪神尼崎」「JR尼崎」「JR塚口」駅周辺は、再開発によって整備され、利便性が高くなった人気エリア。それぞれのまちの再開発前の歴史、再開発の内容、周辺の注目スポットについてご紹介します。

JR尼崎駅-再開発前の歴史

神崎川の渡し場から発展した地域

JR尼崎駅の北東に、神崎という地があります。平安時代、神崎川・猪名川・藻川の合流点に位置したところで、西国と京都を結ぶ船舶が停泊する交通の要所でした。そして、船舶や人々の往来が増えるとともに宿場町が形成され、ここに花街も集まるようになり、宴遊に興じる者たちで賑わいました。当時、貴族のなかで屈指の学者と言われた大江匡房は、神崎は「天下第一の楽地」であると述べ、神崎の賑わいを『遊女記』のなかに描いています。
また、神崎を基点として各方面につながる街道も数多く、尼崎は交通の要所としても繁栄しました。『明月記』によると、藤原定家が有馬旅行の際に神崎をよく利用していたようです。このような貴族の摂津遊行が盛んになったことが、宿場町や交通の要所としての神崎の発展を促すことになりました。

近代においても交通の要所として機能

1874年に大阪と神戸を結ぶ官設鉄道が開通されたとき、JR尼崎駅は神崎駅という名称でした。当時の神崎は農村地帯で、まちの中心部から離れていましたが、大阪と神戸を最短距離で結ぶ地点として選ばれ、駅が置かれたようです。1891年には、旧尼崎城下から伊丹町に至る関西初の馬車鉄道・川辺馬車鉄道が開通して南北の交通を開きました。1916年に尼崎町と立花村の南部が合併して尼崎市となり、1949年になって神崎駅は尼崎駅と改称されました。
大阪の京橋駅と尼崎駅をむすぶJR東西線の着工とともに、尼崎駅でも配線の変更やホームの増設が行われて橋上駅舎が完成。1997年に東西線が開通したことで、JR尼崎駅は新快速・快速が停車する駅となり、交通アクセスの利便性が高まりました。

空襲を受けたまちが高度経済成長期に復活

1937年に始まった日中戦争から1941年開戦の太平洋戦争にかけて戦時国家体制が強まるなか、尼崎の工業も軍需生産の比重を増しました。1945年に入ると米軍による空襲被害を受けるようになり、特に大阪・尼崎地域を襲ったB29による空襲では、尼崎各地に大きな被害がありました。
しかし戦後を迎えて、尼崎の産業は政府の保護を受けながら鉄鋼業を中心に急速に回復します。1950年に起こった朝鮮戦争の特需景気にのって尼崎は再び工業のまちとして蘇り、高度経済成長期の追い風で復活を遂げていきました。工場誘致や人口集中が進む一方で、JR尼崎駅の北側には戦災にあわずに済んだ商店や住宅の老朽化が進み、広範囲にわたって建物の密集地域となっていました。

各エリアの再開発について

森永製菓塚口工場跡の広大な敷地を利用して、関西最大級となる駅前複合再開発プロジェクト「ZUTTOCITY」が誕生。

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キリンビール工場の移転を機に再開発が行われ、駅前広場の整備や高層住宅、複合商業施設の建設などで街並みは大変貌しました。

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阪神尼崎駅の北側および東地区が空中回廊で結ばれたことから、分断されていた庄下川の東側まで駅前エリアが拡大しました。

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